夕暮れ頃、ゲイジ将軍は庁舎で上級士官の会合を召集した。この場でゲイジはダートマス伯爵の命令が届き、植民地に対して行動すべきと言っていることを伝えた。ゲイジはさらに、その連隊の上級佐官、スミス中佐が指揮を執り、ジョン・ピトケアン少佐が副官となることを伝えた。会合は午後8時半に散会となった。その後、パーシーが植民地人の扮装をしてボストンコモンの町の人々の中に紛れ込んだ。ある者の証言によれば、町ではイギリス軍兵士のただものではない動きに議論が向けられていた。パーシーがある男にさらに発言を促すと、彼は「イギリス軍は目標を外すだろう」と答えた。「何の目標だ?」とパーシーは尋ねた。「コンコードの大砲でなくてなんだろう」というのが答えだった。これを聞いたパーシーはすぐに庁舎に帰ってゲイジ将軍に今聞いたばかりのことを伝えた。ゲイジはこれを聞くと、第1旅団全員に武装させ朝4時に出発できる準備を整えるよう命令した。
ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ
フランシス・スミス中佐に率いられるイギリス軍正規兵700名は、ゲイジの占領軍13個連隊の中の11個連隊から選ばれていた。ピトケアンは精鋭の10個軽装歩兵中隊を、ベンジャミン・バーナード中佐が11個擲弾兵中隊を率いていた。その中隊の中から、スミスは第4、第5、第10、第18、第23、第38、第43、第47、第52、第59歩兵連隊から抜き出した擲弾兵中隊(特別攻撃部隊)および第1海兵隊大隊の約350名を率いた。この部隊を守る役目は約320名の軽装中隊(素早く動けて側面を守り、狙撃し、偵察を行う部隊)であった。これは、第4、第5、第10、第23、第38、第43、第47、第52、第59歩兵連隊および第1海兵隊大隊から抜き出されていた。中隊にはそれぞれの中尉がいたが、多数の大尉は最後の瞬間に付け加えられた者であり、ボストン駐留軍の全連隊から集められた者達だった。
イギリス軍は4月18日の夜9時に兵士を起こし、10時にボストン広場の西端の水辺に集合させた。イギリス軍がコンコードへ進軍しまた帰還した過程は初めから最後まで恐ろしい経験となった。渡し船には海軍のバージが使われたが、座ることもできないくらい一杯に詰め込まれた。現在のケンブリッジにあったフィップス農園に上陸した時は真夜中で、腰の辺りまで水に浸かった。装備を陸揚げするための長い休止の後、約700名の正規兵は午前2時頃、コンコードに向けた17マイル (27 km)の行軍を始めた。この待っている間に、兵士達には予備の弾薬、冷たい塩漬け豚肉、堅い乾パンが配られた。兵士達は宿営の予定が無かったので重い背嚢を背負っていなかった。食料を入れる雑嚢、水筒、マスケット銃、携行品などの装備を抱え、それに濡れて履き心地の悪くなった靴にびしょぬれの服を着ていた。メノトミー(今日のアーリントン)を通り過ぎるときに、田園地帯全体から警告の物音が聞こえたので、士官達は急襲の機会は失われたことを感じ取った。午前3時、スミス中佐はピトケアン少佐に軽装歩兵の10個中隊を連れてコンコードに先乗りするよう命じた。4時頃、スミスは賢明ではあるが、少し遅きに過ぎた増援要請の伝令をボストンに送った
レキシントン
4月19日の日の出頃、ピトケアン指揮の先遣隊がレキシントンに入った。ジョン・パーカー大尉率いる77名のレキシントン民兵がバックマン酒場から出てきて村の広場で監視していた。また見物人(40名から100名の間)が道ばたで成り行きを見守っていた。この中には姓がハーリントンという者が9名、マンローが7名、パーカーが4名、ティッド、ロック、リードがそれぞれ3名いた。パーカーは、現在その場所にある石碑に彫られた言葉を放った「そこに立っていろ。撃たれるまでは撃つな。奴らが戦争をしたいというなら、ここで始めよう」。ただし、パーカーがこの台詞を言ったという証拠はない。パーカーはその替わりに、戦闘後のパーカーの宣誓供述書によれば、兵士達にしっかり立っていることと、国王の軍隊にちょっかいを出さず通り過ぎさせるように告げた。パーカーはインディアンとの戦いを経験したものであり、結核でゆっくりと死にかけており、そのような一方的な成り行きで兵士が命を落とさないようにするやり方が分かっていた。
第4、第5および第10軽装歩兵連隊からの前衛軽装歩兵中隊を指揮していたジェス・アデア海兵中尉は、コンコードのある左に向かうよりも、まず右を向いて自隊の側面を守ろうと考え、中隊を連れて広場に入り、民兵を取り囲んで武装解除しようとした。その兵士達はレキシントンの民兵に向かって大声で「ハザー」と叫び、自分達の士気を上げ、民兵を混乱させようとした。ピトケアン少佐は先遣隊の後方から到着し、その3個中隊を先の部隊の左に配置した。残る4個中隊はボストンへ向かう道にある村の集会所の後方にいた。
最初の銃声
ピトケアンは刀を振り回しながら騎乗して前進し、叫んだ「解散しろ反逆者ども。こんちくしょうめ!武器を捨てて解散しろ!」パーカー大尉は言いつけに従うよう部下に告げたが、混乱や、叫び声、それにパーカーの結核特有のかすれ声のために、彼の言うことを聞いていない者もいたし、ゆっくりとその場を立ち去ろうとする者もいた。しかし誰も武器は置かなかった。パーカーもピトケアンも部下に発砲しないように命令していたが、どこからと特定できない1発の銃弾が発射された。
イギリス正規兵の証言によれば、酒場の垣根の背後かあるいは建物の隅にいた植民地見物人の中から最初の発砲があったと言った。レキシントンの民兵の証言では馬に乗っているイギリス軍士官の一人が発砲したと言った。どちらの証言も一致していることは、直接面と向き合っている部隊からの発砲では無かったということである。レキシントンでは後にソロモン・ブラウンという男が酒場の中から発砲したというまことしやかな伝説ができた。イギリス兵には「威嚇射撃」を行うよう命令が出され、これが両軍の交戦につながったという恐らくは作られた伝説もある。最近の研究でも、偶発的な攻撃であるとか、複数の特に関連性はない「最初の1発」が両軍からあった、というような可能性に焦点が置かれている。実のところ、当時も現在も誰がアメリカ独立戦争の最初の銃弾を放ったかは明らかでない。
この場の目撃者によれば、両軍から何度か間欠的な銃撃が行われた後に、イギリス正規兵は命令されることもなしに一斉射撃を始めた。民兵の中には初めのうち、イギリス兵が火薬だけの空砲で銃弾を放っていないと思っている者もいたが、本気であることが分かると数人の民兵達も応射し始めた。残りの者は命を惜しんで逃げ出した。ピトケアンの馬は2発の銃弾を受けた。イギリス兵は銃剣での攻撃に切り替えた。パーカー大尉は従兄弟のジョナスが突き刺されるのを目撃した。8人のマサチューセッツの男が殺され、10名が負傷したのに対し、イギリス兵は1名が負傷しただけだった。殺された8人はアメリカ独立戦争での最初の犠牲者となった。彼らはジョン・ブラウン、サミュエル・ハドリー、キャレブ・ハーリントン、ジョナソン・ハーリントン、ロバート・マンロー、アイザック・マジー、アシャエル・ポーター、およびジョナス・パーカーであった。ジョナソン・ハーリントンは銃弾で瀕死の重傷を負い、這って自分の家まで戻り、その上がり框で息絶えた。負傷者の一人、プリンス・エスタブルックは町の民兵に仕える黒人奴隷だった。
広場のピトケアンの部隊は指揮官の命令を聞かなくなっていた。かれらはあちこちに向けて発砲し、民家に入ろうともしていた。マスケット銃の音を聞いてスミス中佐が擲弾兵中隊の所から馬で前に出てきた。スミスは直ぐに鼓手を見つけて酒豪の太鼓を鳴らさせた。擲弾兵がその後直ぐに到着して一旦集合し、歩兵隊は最後の一斉射撃を撃つことを許され、その後隊列を立て直してコンコードに向けて進軍を始めた。
コンコード
コンコードの民兵達は、レキシントンで起こったことを知らなかったので、近くの町からの応援が来るまで待つべきか、町に残って防御に徹するか、あるいは町の東に動いて有利な地形からイギリス軍を出迎えるべきかを決めかねていた。イギリス軍が近づくにつれて彼らはこのすべてのことをやった。ある丘の上からはスミスが軽装歩兵を配置に着かせるのを民兵達が見守っていた。その民兵は町への撤収を始めた。町の中の丘を占領していた民兵は次に何をすべきか議論していた。イギリス軍の背後から近づいていく者もいた。リンカーンの民兵が到着し議論に加わった。緊張した空気の中で、バーレット大佐はコンコードの町を諦め、オールド・ノース・ブリッジを渡って町から約1マイル北の丘の上に移動した。そこからはイギリス軍の動きを見守ることができた。
イギリス兵はゲイジの命令に従う
スミスの部隊はゲイジの命令を実行するために幾つかの部隊に分かれた。第10連隊の擲弾兵中隊はマンディ・ポール大尉の指揮でサウス・ブリッジを確保した。パーソンズ大尉の指揮する軽装歩兵7個中隊はバーレットの部隊に近いオールド・ノース・ブリッジを確保した。パーソンズ大尉は4個中隊を連れて、橋を過ぎ2マイル (3 km)の道路を進み、バーレットの敷地を探した。一方2個中隊は橋を戻って帰路を確保し、1個中隊が橋そのものの確保に残った。
擲弾兵中隊は、王党派諜報員の詳細情報に従って、軍需物資を求めて小さな町を捜索した。擲弾兵がライトの酒場に到着したとき、ドアに閂が降りており、店主が中に入ることを拒んだ。町の王党派の証言では、ピトケアンはその辺りに大砲が埋められていることを知っていた。店主に銃口を突きつけ、大砲が埋められている場所を教えるように要求した。擲弾兵は村の集会所で発見した大砲の台車を燃やした。その火が集会所そのものに燃え移った時、兵士や村人が集まってきてバケツリレーで建物を救おうとした。樽で100杯近くの小麦粉と塩漬けの食物と550ポンドの銃弾が水車用貯水池に投げ込まれた。スパイクで固定された大砲は翌日補修され(壊された砲耳や、ハンマーで打たれた砲口はそのままだった)、銃弾も回収された。
バーレットの家は数週間前は武器庫となっていたが、その時はほとんど何も無かった。家族に伝わる話では、残っているものも畑の畝の間に埋められ、穀物が植えられているかのように見せていた。
オールド・ノース・ブリッジ
オールド・ノース・ブリッジバーレット大佐は村の広場から立ち上る煙を見て、自隊の下には数個中隊しかいないことを確認すると、それまでのプンカタセットヒルの有利な地点から、コンコード川に架かるオールド・ノース・ブリッジから約300ヤード (270 m)のやや低い平たい丘に移動することにした。その土地はバーレットの指揮下にある民兵を率いるジョン・バットリック少佐の所有地だった。しかも集合訓練地でもあった。イギリス軍の2個中隊がその場所を守っていたが、橋に向かって降りて行き丘をバーレット部隊に明け渡した。
民兵の5個中隊とアクトン、コンコード、ベドフォード、およびリンカーンから集まった民兵の5個中隊が丘を占領し、他にも加わって来る者がいて総勢は約500名となり、イギリス軍ローリー大尉の指揮する2個中隊90ないし95名と向き合った。バーレットはマサチューセッツの男達に橋に向かって降りていく公道に2列に長い横隊を作るよう命じ、協議集会を召集した。後にリバティ・ストリートと名付けられた道の向こうにあるノース・ブリッジを臨みながら、バーレットと他の大尉達はこれからの行動について協議した。遅れて到着したアクトンのアイザック・ディビス大尉は「私は行くのを恐れないし、行くのを怖がるような男はいませんよ」と言って町を進んで守ることを宣言した。
この時、一堂はコンコードの町に立ち上る大砲の台車や樽を焼く煙を初めて見つけた。多くの者はイギリス軍が町を焼き払い始めたと思った。バーレットは部隊の者に武装を命じ、敵が撃つまでは発砲するなと言い含めた。続いて部隊に前進を命じた。要所を固めていたイギリス軍の中隊はオールド・ノース・ブリッジを渡って撤退を命じられ、一人の士官が橋板をはがして植民地人の前進を止めようとした。バットリック少佐はイギリス軍に橋の破壊を止めるよう叫び始めた。民兵達は縦隊を作って公道の上のみを前進した。公道の両側は春の雪解け水であふれていた。
この時両軍には音楽も旗も無かった。何年も後に植民地側にいた老人が突然思い出したことは、笛の奏者が、ジャコバイトがハノーヴァー朝ジョージ3世に抵抗するときに使った有名な曲「ザ・ホワイト・コッケード」を演奏したということである。これは作り話の可能性があるが、スコットランドの反乱は30年ほど昔のことだったので、イギリス兵の中には「ザ・ホワイト・コッケード」が何を意味するかを理解できた者もいた。実のところ、当時の宣誓供述書にその日の橋で旗や音楽に言及したものは、両軍とも見あたらない。イギリス軍の側面を守る中隊には旗が無かった。民兵も全く旗を持っていなかった。
民兵の像名目上ここで分隊を指揮していたウォルター・ローリー大尉は、実戦経験が少なくこの時戦術的な誤りを犯した。町中の擲弾兵隊に援軍を要請した結果が何者ももたらさないと分かった時、ローリーが発した命令は橋の後方で川に垂直に戦列を作り「ストリート・ファイアリング」を行う陣形を採らせたことだった。この陣形は町の中の建物の間など狭い通路に対して集中砲火を浴びせるには適しているが、橋の後方の開けた場所には適していなかった。橋を渡って撤退する正規兵が、他の部隊がストリート・ファイアリングの陣形を採っているのを見て混乱が広がることになった。ウィリアム・スーザランド中尉は隊形の後方にあって、戦術の誤りに気付き側面を抑える部隊を出そうとした。しかし、スーザランドはそこにいた兵士とは異なる中隊の者だったので、命令に従ったのは4名のみであった。残りの兵士は上官のローリーの命令に従うために混乱の中でできることを尽くした。
両軍は映画に出てくるような互いに向かい合った形にはならなかった。大文字のTの形に両軍が相対することになり、Tの字の上、水平線が愛国者兵、下の縦の線が橋であり、その先のローリーのイギリス兵ということになった。集団心理というのだろうが、混乱したイギリス兵はストリート・ファイアリングの陣形を作り続け、愛国者民兵は橋に向かって土手道を二列縦隊で進むという形になった。
1発の銃声が発せられた。今回はイギリス軍の列から発せられたことは両軍とも認識できた。ローリーが戦闘後に書いた報告書では、威嚇射撃であり、恐怖に取り付かれ疲れ切っていたイギリス兵が発砲したということである。直後に他にも2人の正規兵が発砲し、続いて1列になっていた部隊の先頭にいた兵士達が攻撃命令が出たものと思ってばらばらと発砲した時ローリーがそれを止めさせた。
橋に向かって前進していた愛国者民兵軍の先頭で、アクトンの民兵、アブナー・ホスマーとアイザック・デイビスが撃たれて即死し、4名が負傷したが、バットリック少佐が叫んだ「撃て!後生だ。仲間よ、撃て!」と叫んだ時に初めて停止した。隊列はコンコード川で遮られほんの50ヤード (45 m)の距離になっていた。民兵の先頭は道で遮られ、戦列を組むことが難しかったが、仲間の頭越し、肩越しにイギリス軍目がけて発砲した。銃弾は弧を描いて飛びイギリス兵の真ん中に跳んでいった。この一斉射撃で橋近くの隊列の先頭にいた8人のイギリス軍士官のうち4人が負傷した。最終的に3人の兵士が戦死し、スーザランド中尉を含む10名が負傷した。
イギリス兵は数的にも負けており、戦術的にも不利な位置にいることをこの時認識した。指揮官が欠け、多数の敵に恐れをなし、このような戦闘を以前に経験したことのないイギリス兵は、心を奪われて負傷者も捨て、町の中心からやってくる擲弾兵中隊の方に逃げ出した。