2009年06月30日

学生を中心とした民主化や汚職打倒を求める

学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には西安や長沙、南京などの一部の地方都市にも広がっていったが、全土に広がっていったのは、その後に学生らが天安門広場でカンパを集め始めたころからである。西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と学生との衝突が発生した。

趙紫陽は田紀雲らの忠告にもかかわらず「国外に動揺を見せられない」として北朝鮮への公式訪問を予定通り行うことを決め、李鵬に「追悼会は終わったので学生デモを終わらせる、すぐに授業に戻すこと、暴力、破壊行為には厳しく対応すること、学生たちと各階層で対話を行うこと」とする3項目意見を託したが、4月25日、李鵬や李錫銘北京市党委書記、陳希同北京市長ら保守派が事実を誇張した報告を受け、鄧小平の談話を下地にまず中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」で発表され、続いて翌日の4月26日付の人民日報1面トップに、「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題された社説(四・二六社説)が掲載された。
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北朝鮮訪問前に趙紫陽が示した「3項目意見」は全く反映されず、社説は胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」と位置づけたことで学生たちの反感を買い、趙紫陽ら改革派と李鵬ら保守派が対立するきっかけともなった。

上海市の週刊誌である『世界経済導報』は胡耀邦の追悼をテーマとした座談会を開き、その中で参加者が胡の解任を批判したり名誉回復を要求する発言を報じた。校正刷りの段階で内容を把握した上海市は、党委員会書記(当時)の江沢民が宣伝担当の曽慶紅党委副書記と陳至立市宣伝部長に命じ、問題の箇所を削除するよう命令を出した。社長である欽本立はこの要求を拒否したため、同紙は発行停止となった。前出の四・二六社説発表後に市の党幹部1万人を集めて勉強会を開いた対応と共に評価され、江沢民が党総書記に選ばれる要因となった。

2009年06月12日

システムダイナミクス

システム理論の局面、システムダイナミクスが複雑なシステムの原動力となる働きを理解するための方法である。その手法の基礎は、個々のコンポーネント自身としてその行動を決定することにおいて、どんなシステム - 多くの循環する、組み合っている、時々時間によって遅らせられたそのコンポーネントの間の関係 - でもの構造がしばしば同じぐらい重要であるという認識である。例はカオス理論と社会動学である。要素の特性の間にしばしばそっくりそのまま見いだされることができない - の特性があるから、ある場合には全体の行動が部分の行動に関して説明されることができないことは同じく主張される。例はそれらだけで一緒に考慮されるとき文字に存在しない意味に海膨を与えることができるこれらの文字の特性である。これは、緊密に結びついたシステムを通しての最も易しいパス順応性の人間のアプリケーションのいっそう極度にけちなプロセスとして、言語のように、さらにインテグレーションの手段を説明する。
星と光たち
オリンピックの驚き
海のお話
ウサギの秘密
めの付く言葉
音楽歴史
まの付く言葉
バレンタインデー
たばこ禁煙
酒に飲まれて
皮膚科学
為替
アーチェリー
ボイスドラマ
九州
カポエラ
ビオトープ
縄跳び
包装
ソフトボール

社会学 [編集]
システム理論は又、社会学の中で展開された。この分野で最も広く引用された学者はニクラス・ルーマンである(Luhmann 1994を参照せよ)しかし、(Sociocyberneticsに焦点を合わせる)国際社会学的な協会の調査委員会51(Research Committee 51)メンバーのような、若干の他の人たちがそれが主に社会の運営を操作すると論じられるSociocyberneticsフィードバックループを識別しようと努めた。主として教育のエリアで行われた研究をベースにして、Raven(1995)が、例えば、首尾一貫して善意で行われた公共の行動を傷つけて、そして絶滅に向かって、急激に増加する率において、現在我々の種を率いているのはこれらの sociocybernetic プロセスであると論じた。(持続可能性を見よ) 彼はこれらのシステムプロセスの理解が我々に - すなわち、違っていることのために惑星の破壊を止めるために必要とされる一種の(常識ではない)の目標を定められた仲裁を生み出すことを許すであろうことを提案する。

組織的理論 [編集]
組織が複雑で活動的なゴール指向のプロセスであるとき、組織理論へのシステムのアプローチは同じく重要である。組織へのシステムアプローチは頻繁に開放性 (Openness) とフィードバックを通して否定的なエントロピーを達成することに頼る。組織についての全身の意見は 学際的 と 集成的 である。換言すれば、それは、普通の「コード」をベースにして、あるいは、いっそう正確に、システム理論によって提供された正式の機構をベースにしてそれらを統合して、個々の訓練の展望を越える。システムアプローチは、システムの要素にではなく、相互関係に首位を与える。システムの新しい特性が出現するのはこれらのダイナミックな相互関係からである。

近年、システムズシンキングの分野はいっそう伝統的な還元主義的な方法を補う全体論的な方法でシステムを調査するためにテクニックを提供するために開発された。より最近の伝統では、一般システム理論が若干名によって自然科学のヒューマニズムの拡張であると考えられる。

2009年06月08日

社会生物学と霊長類学

1975年に昆虫学者エドワード・ウィルソンは、道徳が倫理学者と社会科学者だけの物ではなくて、自然科学者、特に生物学者もその議論に加わるべきだと主張した。それ以来多くの社会生物学者と霊長類学者が道徳の起源と進化について論じてきた。1990年代には生物学者から二つの大きな著作が発表された。一つは霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールの『気立ての良さ(邦題:利己的なサル、他人を思いやるサル)』で、ドゥ・ヴァールは霊長類に(道徳があるとは主張しなかったが)共感と愛情、社会秩序、互恵関係、コミュニティ、紛争と和解の概念が存在し、ヒトの道徳の基盤と共通であると述べた。公平さの感覚はイヌ[17]など他の社会性動物でも発見されている。
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1990年代のもう一つの大きな著作は神経科学者アントニオ・ダマシオの『デカルトの誤り(邦題:生存する脳)』で、神経学者が道徳の議論に参加する先駆けとなった。ダマシオと同僚は前頭葉の前部と中部を損傷した患者が、19世紀のフィネアス・ゲイジと同じように、感情を用いた意思決定が困難になると指摘した。そのような患者は現実的な判断能力を大きく損なっているにもかかわらず、理論的な社会知識を保持している。神経倫理学者ジョシュア・グリーンはトロッコ問題を解明するために従来の倫理学の論理の代わりに、fMRIを利用した。グリーンによれば、人を突き落とす際には否定的な反応が起きるが、その際にfMRIでは腹内側前頭皮質が強く反応する。同時に功利主義的な判断には前頭前野背外側部が関わっていそうである。そして理性と道徳的直観が衝突するとき、前頭前野背外側部と前帯状皮質の反応が見つかる。そして前頭側頭型認知症の人は迷わずに功利主義的な判断を行う

2009年04月24日

歳差

歳差(さいさ、precession)または歳差運動(さいさうんどう)とは、自転している物体の回転軸が、円をえがくように振れる現象である。

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物理現象としての歳差
一般に、剛体が角運動量を持つとき、その回転軸が慣性主軸で無いならば、外力が無くても回転軸は慣性主軸のまわりを振れ回るような動きをする。これを自由歳差運動という。(地球の自転運動では、これは極運動の自由章動成分として現れる。)

回転軸が重心を通る慣性主軸であれば回転は安定的だが、 回転軸をひねるような向きのトルクを与えると、自転軸が円を描くように振れる。典型的な例は回転するコマの首振り運動である。歳差運動をする物体の自転軸はすりこぎを擦るように両端が円を描いて回転する。

コマがこのような運動をするのは、コマの自転の角運動量ベクトルに対して、コマに働く重力によるトルクが軸を倒す方向に継続的に加わる結果、自転の角運動量ベクトルが大きさを変えずに向きだけ回転するためである。これは、中心力によって等速円運動している物体が、継続的に加わる中心力によって運動量ベクトルの大きさを変えずに向きだけを回転させているのと同じ関係である。

天文学においては、地球の歳差運動、すなわち、地球の自転軸がコマの首振り運動のような回転をしているために春分点・秋分点が黄道に沿って少しずつ西向きに移動する現象のことを指して歳差(さいさ)と呼ぶことが多い。この歳差の周期は約25,800年である。

この地球の歳差運動の原因は、地球の形状が赤道部分の膨らんだ回転楕円体であるため、太陽や月の重力による潮汐力によって、赤道部分の膨らみを黄道面と一致させようとする方向にトルクを受けているためである。これを日月歳差という。日月歳差によって天の北極や赤道が動く。

また地球の公転運動に対しては、惑星の引力がわずかではあるが影響を及ぼしている。これによって、地球の軌道つまり黄道が動く。この変化は春分点の移動と、黄道の傾斜角度の変化となって現れる。これを惑星歳差という。惑星歳差は日月歳差に比べてきわめて小さい。

この歳差のために、天の北極は天球上で黄道北極を中心とする円を描く。現在の北極星はこぐま座α星(ポラリス)だが、紀元前2000年頃には天の北極はりゅう座α星(トゥバン)の近くに位置していた。西暦14000年頃には天の北極はこと座のベガ近くに移動する。

歳差による春分点の移動を最初に発見したのは、紀元前150年頃のギリシャの天文学者ヒッパルコスである。彼は黄経180度・黄緯0度にほぼ近い位置にあるおとめ座のスピカを使い、皆既月食の時に月とスピカの角距離を測った。日食や月食は黄道と白道の交点でしか起こらないので、日食・月食時の月や太陽は必ず黄道上にいる。従ってこの時のスピカとの角距離は、そのままスピカと月または太陽との黄経の差になる。ヒッパルコスはこの黄経の差を、彼の時代より約150年前のティモカリスが作った星表と比較して、黄経の値が変わっていることを発見した。彼はスピカ以外の恒星についても同様にずれていることを見つけ、このずれは恒星の運動によるものではなく、黄経の基準である春分点自体が移動しているためであると結論した。

2009年04月07日

音楽としてのガムラン

使用音階 [編集]
インドネシアでは伝統的なペロッグ音階 (Pelog) とスレンドロ音階 (Sulendra) の二つの五音音階(一オクターブを五分割した音階)が演奏目的別に使い分けられる。バリでは、前者がサイ・ゴン、後者がサイ・グンデル・ワヤンと呼ばれる。

バリ島のガムラン音楽 [編集]
バリ島のガムラン音楽は、その時期によって、古楽、中世音楽、近代音楽とに分けることができる。

古楽 [編集]
マジャパヒト王国の崩壊に伴ってその貴族や僧がバリ島への移住を始める16世紀以前から、バリ島にすでにあったと考えられている音楽。基本的に宗教的な性格を強く帯びており、儀式の際に奏でられる。音階の種類の多彩さが、その特徴である。

中世音楽 [編集]
パジャパヒト王国の末裔によって開花した16世紀来の宮廷文化から、20世紀のオランダ植民地支配が実効化するまでの期間の音楽。レゴンなどの舞踊や舞踏劇などの宮廷芸能と結びついた音楽で、ガムラン・ガンブー、ブバロンガンなどがこれにあたる。


近代音楽 [編集]
20世紀以降の観光、娯楽と結びついた民衆音楽で、ゴン・クビヤール、ガムラン・アルジャ、ジェゴグなどがこれにあたる。

海外における受容 [編集]

アメリカ合衆国 [編集]
アメリカの作曲家ルー・ハリソンはこれらの楽器を調律しなおして自分の作曲に用いており、インドネシアの伝統美とは一風変わったオリジナリティが漂う。他にも、サルヴァトーレ・シャリーノ、ジョン・ケージ、ウィル・エイスマ、ホセ・マセダのようにガムランアンサンブルに刺激されて作曲する者も少なくない。アメリカのいくつかの大学では、ガムランのサークルが大変に盛り上がりを見せており、大変高いレヴェルを維持するサークルも見られる。

オランダ [編集]
インドネシアはかつてオランダ領だった経緯もあり(「オランダ領東インド」を参照)、ガムランの楽器がオランダで使われる例も見られた。松平頼則のオーケストラ作品の初演の際、打楽器の種類は特に指定していない部分を、ブルーノ・マデルナがガムランの楽器を用いてアムステルダムで初演した。

日本 [編集]
阪急電鉄、宝塚歌劇団、阪急百貨店などの阪急東宝グループの創始者、小林一三(逸翁)がジャワ島を訪問した際に、いくつかのガムランの楽器が寄贈されたとの説がある。ただし、正式な受容としては、東京芸術大学の楽理科の教授であった故小泉文夫が、東洋音楽の研究等のために一式購入してアンサンブルを組織したのが初めてのこととなる。現在では、バリ、ジャワ、スンダのいずれのスタイルのガムラン・アンサンブルも組織されており、受容先進国と言っても過言ではない。

目下、芸術大学にて正式なカリキュラムで学べるように環境を整えていくことが課題となっている。なかでも沖縄県立芸術大学では、バリ、ジャワ双方のアンサンブルがあり、いずれも専門課程としては組み込まれてはいないものの、近年精力的な活動を続けている。特にバリ・ガムランのアンサンブルは、日本における代表的なガムラン奏者の一人と目される梅田英春准教授(音楽民族学、人類学)の指導の下、意欲的な活動が行われている。さらに、東京音楽大学付属民族音楽研究所では学生に限らず、広く一般にも門戸を広げこの「青銅の管弦楽」ともいえる音楽を紹介している。

ポピュラー音楽では、坂本龍一が、ガムランのサンプリング音や音階などを作品に積極的に取り入れている。

すぎやま バイオ ファイト チグラフィ 寛和 トリタン ビストロ クウェート スペシャル トップス スラバ フェン サイネ 赤ひげ ピペット スクワレ ミイアエラ スイッチ ソース ルーター シティー ハイオネロ メキシコ メグマ オルゴール フーファ タンデム フェース 冬の南風 セイフ バイポ ブラウニー フランネ スマス ギャンブル おーたむ バース 古都の ケワキ ルーイク レット リングアウ ド小法師 ズンイン レングス バック テクニ スラブ 見返り NO1ラン

2009年03月23日

阪急2000系電車

阪急2000系電車(はんきゅう2000けいでんしゃ)は、阪急電鉄(以下「阪急」)が1960年から神戸線・宝塚線(神宝線)用として製造した通勤形電車である。

本項では、本系列の600V・1500V複電圧対応型である2021系電車(電装解除後は2071系)、宝塚線用の低速型である2100系電車、能勢電鉄がこれら3形式を阪急から譲受し、能勢電鉄1500系電車・1700系電車とした車両についても記述する。

2000系・2021系・2100系の車体は、いずれもメーカーであるナニワ工機(現・アルナ車両)の手による鋼製の準張殻構造を採り入れた軽量設計であった。これは前世代の1010系・1300系などが軽量化に腐心するあまり特殊かつ極めて複雑な車体構造となり、製造・保守の両面で問題が生じたことへの反省として設計されたものであり、車両寿命がある程度短縮されることを承知の上で外板厚を縮小して重量軽減を図る一方で車体工作法を可能な限り簡素化して製造・維持コストの圧縮を図ったものである。

そのため、デザインは直線を基調としたシンプルな形状とされたが、前面は三面折り妻とされ、前面・屋根・裾部に丸みが付けられた。また、通風は1010系などと同様の軸流送風機によるファンデリアを用いた強制換気であるが、同系列などで問題となった複雑な屋根構造は廃され、換気用のモニター屋根と呼ばれる通風ダクトを本来の屋根構造とは独立して全長に渡って搭載する構成に変更され、構造の大幅な簡素化が実現した[1]。
ジーセ ヨガア シチュー タン総合 ハニート マイペー ブラカップ ローラー 冬の花火 マンダ ヤーン パンチカド オーバル クロマ 海眺望 トルエ ナンプラー シーオーイ インター ケット モブシ 京野 リンケ オーディ ユニコー オプテ クローザー ハーバ ナイタ スカップ パラド ショコラ ショート サイクリ ナサ ブルー ハロウィン ナックル 湾岸道路 ユンド ロールカ ロイシン テアフ ライフ プライス パワー センサス セオドラ ソフト ミラノ

前面は、連結運転時の乗客の移動を考慮して中央に貫通扉が設置され、その両隣に窓が1つずつ設けられていた。前照灯は阪急の車両で初めて採用された丸型シールドビーム2灯が四角形のケースの中に入れられて貫通扉上に、尾灯は左右の窓上に1灯ずつ設置されていた。左右の窓下にはフックが1つずつあり、行先表示板を掲出できるようになっていた。また、車体側面には列車種別表示灯が設置され、尾灯もこれに合わせて内部切り替えにより標識灯として使用することが可能であった。

窓配置は運転台付き車両がd1D3D3D2、中間車が2D3D3D2(d:乗務員扉、D:客用扉)で、側窓はワンタッチで開閉可能な新設計の大型ユニット窓が採用された[2]。また、客用扉は阪急の車両では初採用となる1300mm幅の両開き扉が採用され、戸袋窓は省略された。

外部塗装は、同時期に他社に明るい色の車両が多くなっていた中、在来の車両と同じマルーン(赤みがかった茶)の単色塗りとされ、窓枠のみアクセントとしてアルミサッシ無塗装の銀色とされた。室内も木目調の内壁とゴールデンオリーブ(光沢のある深緑)の落ち着いた雰囲気で、全席ロングシートであった。妻面は、開放感を持たせるために1080mm幅の広幅貫通路で隣の車両と連結されていた。

車両番号は電動車・付随車・制御車でそれぞれ0?と50?(2021系の場合はそれぞれ21?と71?)と付番され、側面窓下に左右1箇所ずつと先頭車は前面貫通扉中央にも1ヶ所、ステンレス板で番号が掲出されていた。

途中で前面デザインや車体材質の変更などがあったものの、基本的な車体構造は1997年に製造された8000系最終グループまで受け継がれ、昭和中期から平成時代までの阪急のスタンダードとなった。

パンタグラフは、当初電力回生制動常用を前提として設計されていたため、離線による回生失効を防止するため菱形のPG-18A1を1両あたり2基搭載していた。その後、神宝線架線電圧の昇圧に伴い2000系と2100系の回生制動機能が廃止された際に1両あたり1基に削減[3]されている。さらに2000系は冷房改造時に「モニター」は撤去された。

2009年03月07日

アラスカ級大型巡洋艦

アラスカ級大型巡洋艦(Alaska Class Large Cruiser)は、アメリカ海軍の大型巡洋艦。文献によってはしばしば巡洋戦艦に分類される。

本級はアメリカ海軍が日本が秘かに開発していると伝えられていた「超甲巡[1]」やドイツの「ドイッチュラント級装甲艦」、「シャルンホルスト級巡洋戦艦」などに対抗するため、重巡洋艦よりも大型で条約型巡洋艦を火力で凌駕し、戦艦よりも安価に調達の出来る「ラージ・クルーザー」として建造を計画した。

美しさよりも生産性・実用性を重視するアメリカらしく、すっきりとしたデザインにまとめられている(デザイン元は同時期に建造された「ノースカロライナ級」であると言われる)。

船体は中央楼型で、伸び上がったシアが際立つ艦首から新設計の「1939年式 Mark8型30.5cm(50口径)3連装砲」を1、2番主砲塔を背負い式に2基、その背後から甲板一段分上がってそこに「1934年型12.7cm(38口径)連装両用砲」が1基、更に一段甲板が上がって司令塔を組み込んだ箱型操舵艦橋とその左右に両用砲を1基ずつ、二段式の見張り台を備える戦闘艦橋の頂部には 7.2m測距儀を持つ。直立した煙突はT字型のアンテナが付くものの、フランスの「リシュリュー級」の MACK型煙突のように後檣の役割は持たなかった。

艦橋と煙突の間には艦載機を運用するスペースが設けられ、短いカタパルトが並列に2基装備された。艦載機は煙突下部の格納庫から煙突両脇に腕のように伸びたクレーンによりカタパルトに載せられた。後檣を中心に逆三角形型に両用砲を3基、その背後に3番主砲塔を後向きに1基配置した。

船体
本級の船体設計は当初は戦艦と同様に設計されていたが、予算の問題により途中で巡洋艦式の船体設計に改められた。そのため、船体の形状は建造しやすい平甲板型船体となっており、艦首は強いシア(甲板の傾斜)とフレア(波を下方に落とすための窪み)を持つクリッパー・バウとなっている。また、本級の船体形状は縦横比率が7:1と、異常に細長い。そのために荒天時の操舵性・凌波性は同クラスの軍艦の中で最も悪く、直進安定性が良すぎて舵の効きがタンカー並に悪く、在籍時は艦隊行動を乱す問題児であった。これは元々の設計が巡洋艦式で高速を出し易い船体形状であるためと、舵の配置方式は新戦艦に採用されたツイン・スケグ(スクリュー軸にフィン状の構造物を付け、スクリューの背後に舵を配置する形式)ではなく、巡洋艦と同じく艦尾に一枚の舵を1基取り付ける形式を採用しているためでもあるので、純粋に砲撃時の安定性も考慮される戦艦と比べるべきではないかもしれない。

武装
主砲
本級の主砲は「ワイオミング級」の「1912年式 Mark7型30.5cm(50口径)砲」を改良した「1939年式 Mark8型30.5cm(50口径)砲」を採用した。本級の主砲は12インチ砲ながら14インチ砲弾並の重量級の砲弾(SHS:517kg)が発射可能で、最大仰角45度で射程35,271mまで届かせる能力を持っており射距離22,800m以内で舷側装甲267mmを貫通し、射距離32,000m以上では甲板への貫通値は182mmで中々の高性能砲といえる。これを新設計の3連装砲塔に収めた。発射速度は毎分2.4発?3発で、仰角45度/俯角3度で動力は電動であり補助に人力を必要とした。旋回角度は首尾線を0度として左右150度であった。

副砲、その他の備砲
他に副砲の代わりにノー・ス・カロライナ級にも装備された「1934年型12.7cm(38口径)両用砲」を採用し、これを連装砲架で6基装備した。配置方式は戦艦のように片舷に半分ずつ搭載する方式でなく、重巡洋艦「ボルティモア級」のように亀甲型に配置した。この配置は少ない搭載数でも前後方向に6門、左右方向に8門が指向できる効率の良い搭載方式であるが。その他に両用砲の補助として「40mm(56口径)ボフォース機関砲」を4連装で14基56門、「エリコン20mm(70口径)機関銃」を34門装備した。

防御
本級の船体防御は戦艦の装甲配置より主甲板防御から断片防御を取り払った様な形式を採用しており、ここでも巡洋艦式設計が響いている。舷側装甲は229mmを10度の傾斜を付けて装備される傾斜装甲形式で、新戦艦と同様である。これを1番主砲塔側面から3番主砲塔側面にかけての広い範囲を防御しており、水面から下部は127mmまでにテーパーしている。また、水平防御は上甲板に71mmから76mmの装甲が貼られ、その下に25mm装甲が貼られた。そのため、合計しても水平防御は96mm?101mmにしかならず、同クラスの排水量を持つ軍艦と比較しても本級の防御力は低い。対重巡洋艦戦闘ならば本級の防御は重防御だが、仮想敵の「超甲巡」の12インチ砲や「シャルンホルスト級」の11インチ砲に対しては本級の防御は不充分であり、更に日本海軍の「金剛型」の持つ14インチ砲に対し本級の防御能力は低いとしか言いようが無い。また、対水雷防御が適用されている範囲は主舷側装甲の張られている範囲と同一で、そこから先は船体下部の二重底が舷側まで伸びて一層式の水密区画となっている他は区画細分化で妥協しており、ここでもコストダウンが響いている。上述の通り本級がしばしば巡洋戦艦に分類されるのは、この防御力の弱さによるものである。
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機関
本級の機関はコストダウンのため、航空母艦「エセックス級」と同一でバブコック&ウィルコックス式重油専焼缶8基とジェネラルエレクトリック社製2段減速式ギヤード・タービン4基4軸推進で最大出力150,000hpで最大速力33ノットを発揮できるとされていたが、公試ではカタログデーターを下回った。機関配置は新戦艦と同様に「シフト配置」を採用しているが、ここでも機関配置は巡洋艦式でボイラー4基とタービン2基を一組として前後2組を配置していた。

同型艦
アラスカ(USS Alaska, CB-1)
グアム(USS Guam, CB-2)
ハワイ(USS Hawaii, CB-3) 未成艦、進水後の1947年2月に建造中止。
以下は計画艦

フィリピンズ(USS Philippines, CB-4)
プエルトリコ(USS Puerto Rico, CB-5)
サモア(USS Samoa, CB-6)

2009年02月19日

イギリス陸軍と海兵隊の動き

夕暮れ頃、ゲイジ将軍は庁舎で上級士官の会合を召集した。この場でゲイジはダートマス伯爵の命令が届き、植民地に対して行動すべきと言っていることを伝えた。ゲイジはさらに、その連隊の上級佐官、スミス中佐が指揮を執り、ジョン・ピトケアン少佐が副官となることを伝えた。会合は午後8時半に散会となった。その後、パーシーが植民地人の扮装をしてボストンコモンの町の人々の中に紛れ込んだ。ある者の証言によれば、町ではイギリス軍兵士のただものではない動きに議論が向けられていた。パーシーがある男にさらに発言を促すと、彼は「イギリス軍は目標を外すだろう」と答えた。「何の目標だ?」とパーシーは尋ねた。「コンコードの大砲でなくてなんだろう」というのが答えだった。これを聞いたパーシーはすぐに庁舎に帰ってゲイジ将軍に今聞いたばかりのことを伝えた。ゲイジはこれを聞くと、第1旅団全員に武装させ朝4時に出発できる準備を整えるよう命令した。
ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ

フランシス・スミス中佐に率いられるイギリス軍正規兵700名は、ゲイジの占領軍13個連隊の中の11個連隊から選ばれていた。ピトケアンは精鋭の10個軽装歩兵中隊を、ベンジャミン・バーナード中佐が11個擲弾兵中隊を率いていた。その中隊の中から、スミスは第4、第5、第10、第18、第23、第38、第43、第47、第52、第59歩兵連隊から抜き出した擲弾兵中隊(特別攻撃部隊)および第1海兵隊大隊の約350名を率いた。この部隊を守る役目は約320名の軽装中隊(素早く動けて側面を守り、狙撃し、偵察を行う部隊)であった。これは、第4、第5、第10、第23、第38、第43、第47、第52、第59歩兵連隊および第1海兵隊大隊から抜き出されていた。中隊にはそれぞれの中尉がいたが、多数の大尉は最後の瞬間に付け加えられた者であり、ボストン駐留軍の全連隊から集められた者達だった。

イギリス軍は4月18日の夜9時に兵士を起こし、10時にボストン広場の西端の水辺に集合させた。イギリス軍がコンコードへ進軍しまた帰還した過程は初めから最後まで恐ろしい経験となった。渡し船には海軍のバージが使われたが、座ることもできないくらい一杯に詰め込まれた。現在のケンブリッジにあったフィップス農園に上陸した時は真夜中で、腰の辺りまで水に浸かった。装備を陸揚げするための長い休止の後、約700名の正規兵は午前2時頃、コンコードに向けた17マイル (27 km)の行軍を始めた。この待っている間に、兵士達には予備の弾薬、冷たい塩漬け豚肉、堅い乾パンが配られた。兵士達は宿営の予定が無かったので重い背嚢を背負っていなかった。食料を入れる雑嚢、水筒、マスケット銃、携行品などの装備を抱え、それに濡れて履き心地の悪くなった靴にびしょぬれの服を着ていた。メノトミー(今日のアーリントン)を通り過ぎるときに、田園地帯全体から警告の物音が聞こえたので、士官達は急襲の機会は失われたことを感じ取った。午前3時、スミス中佐はピトケアン少佐に軽装歩兵の10個中隊を連れてコンコードに先乗りするよう命じた。4時頃、スミスは賢明ではあるが、少し遅きに過ぎた増援要請の伝令をボストンに送った

レキシントン
4月19日の日の出頃、ピトケアン指揮の先遣隊がレキシントンに入った。ジョン・パーカー大尉率いる77名のレキシントン民兵がバックマン酒場から出てきて村の広場で監視していた。また見物人(40名から100名の間)が道ばたで成り行きを見守っていた。この中には姓がハーリントンという者が9名、マンローが7名、パーカーが4名、ティッド、ロック、リードがそれぞれ3名いた。パーカーは、現在その場所にある石碑に彫られた言葉を放った「そこに立っていろ。撃たれるまでは撃つな。奴らが戦争をしたいというなら、ここで始めよう」。ただし、パーカーがこの台詞を言ったという証拠はない。パーカーはその替わりに、戦闘後のパーカーの宣誓供述書によれば、兵士達にしっかり立っていることと、国王の軍隊にちょっかいを出さず通り過ぎさせるように告げた。パーカーはインディアンとの戦いを経験したものであり、結核でゆっくりと死にかけており、そのような一方的な成り行きで兵士が命を落とさないようにするやり方が分かっていた。

第4、第5および第10軽装歩兵連隊からの前衛軽装歩兵中隊を指揮していたジェス・アデア海兵中尉は、コンコードのある左に向かうよりも、まず右を向いて自隊の側面を守ろうと考え、中隊を連れて広場に入り、民兵を取り囲んで武装解除しようとした。その兵士達はレキシントンの民兵に向かって大声で「ハザー」と叫び、自分達の士気を上げ、民兵を混乱させようとした。ピトケアン少佐は先遣隊の後方から到着し、その3個中隊を先の部隊の左に配置した。残る4個中隊はボストンへ向かう道にある村の集会所の後方にいた。

最初の銃声
ピトケアンは刀を振り回しながら騎乗して前進し、叫んだ「解散しろ反逆者ども。こんちくしょうめ!武器を捨てて解散しろ!」パーカー大尉は言いつけに従うよう部下に告げたが、混乱や、叫び声、それにパーカーの結核特有のかすれ声のために、彼の言うことを聞いていない者もいたし、ゆっくりとその場を立ち去ろうとする者もいた。しかし誰も武器は置かなかった。パーカーもピトケアンも部下に発砲しないように命令していたが、どこからと特定できない1発の銃弾が発射された。

イギリス正規兵の証言によれば、酒場の垣根の背後かあるいは建物の隅にいた植民地見物人の中から最初の発砲があったと言った。レキシントンの民兵の証言では馬に乗っているイギリス軍士官の一人が発砲したと言った。どちらの証言も一致していることは、直接面と向き合っている部隊からの発砲では無かったということである。レキシントンでは後にソロモン・ブラウンという男が酒場の中から発砲したというまことしやかな伝説ができた。イギリス兵には「威嚇射撃」を行うよう命令が出され、これが両軍の交戦につながったという恐らくは作られた伝説もある。最近の研究でも、偶発的な攻撃であるとか、複数の特に関連性はない「最初の1発」が両軍からあった、というような可能性に焦点が置かれている。実のところ、当時も現在も誰がアメリカ独立戦争の最初の銃弾を放ったかは明らかでない。

この場の目撃者によれば、両軍から何度か間欠的な銃撃が行われた後に、イギリス正規兵は命令されることもなしに一斉射撃を始めた。民兵の中には初めのうち、イギリス兵が火薬だけの空砲で銃弾を放っていないと思っている者もいたが、本気であることが分かると数人の民兵達も応射し始めた。残りの者は命を惜しんで逃げ出した。ピトケアンの馬は2発の銃弾を受けた。イギリス兵は銃剣での攻撃に切り替えた。パーカー大尉は従兄弟のジョナスが突き刺されるのを目撃した。8人のマサチューセッツの男が殺され、10名が負傷したのに対し、イギリス兵は1名が負傷しただけだった。殺された8人はアメリカ独立戦争での最初の犠牲者となった。彼らはジョン・ブラウン、サミュエル・ハドリー、キャレブ・ハーリントン、ジョナソン・ハーリントン、ロバート・マンロー、アイザック・マジー、アシャエル・ポーター、およびジョナス・パーカーであった。ジョナソン・ハーリントンは銃弾で瀕死の重傷を負い、這って自分の家まで戻り、その上がり框で息絶えた。負傷者の一人、プリンス・エスタブルックは町の民兵に仕える黒人奴隷だった。

広場のピトケアンの部隊は指揮官の命令を聞かなくなっていた。かれらはあちこちに向けて発砲し、民家に入ろうともしていた。マスケット銃の音を聞いてスミス中佐が擲弾兵中隊の所から馬で前に出てきた。スミスは直ぐに鼓手を見つけて酒豪の太鼓を鳴らさせた。擲弾兵がその後直ぐに到着して一旦集合し、歩兵隊は最後の一斉射撃を撃つことを許され、その後隊列を立て直してコンコードに向けて進軍を始めた。

コンコード
コンコードの民兵達は、レキシントンで起こったことを知らなかったので、近くの町からの応援が来るまで待つべきか、町に残って防御に徹するか、あるいは町の東に動いて有利な地形からイギリス軍を出迎えるべきかを決めかねていた。イギリス軍が近づくにつれて彼らはこのすべてのことをやった。ある丘の上からはスミスが軽装歩兵を配置に着かせるのを民兵達が見守っていた。その民兵は町への撤収を始めた。町の中の丘を占領していた民兵は次に何をすべきか議論していた。イギリス軍の背後から近づいていく者もいた。リンカーンの民兵が到着し議論に加わった。緊張した空気の中で、バーレット大佐はコンコードの町を諦め、オールド・ノース・ブリッジを渡って町から約1マイル北の丘の上に移動した。そこからはイギリス軍の動きを見守ることができた。

イギリス兵はゲイジの命令に従う
スミスの部隊はゲイジの命令を実行するために幾つかの部隊に分かれた。第10連隊の擲弾兵中隊はマンディ・ポール大尉の指揮でサウス・ブリッジを確保した。パーソンズ大尉の指揮する軽装歩兵7個中隊はバーレットの部隊に近いオールド・ノース・ブリッジを確保した。パーソンズ大尉は4個中隊を連れて、橋を過ぎ2マイル (3 km)の道路を進み、バーレットの敷地を探した。一方2個中隊は橋を戻って帰路を確保し、1個中隊が橋そのものの確保に残った。

擲弾兵中隊は、王党派諜報員の詳細情報に従って、軍需物資を求めて小さな町を捜索した。擲弾兵がライトの酒場に到着したとき、ドアに閂が降りており、店主が中に入ることを拒んだ。町の王党派の証言では、ピトケアンはその辺りに大砲が埋められていることを知っていた。店主に銃口を突きつけ、大砲が埋められている場所を教えるように要求した。擲弾兵は村の集会所で発見した大砲の台車を燃やした。その火が集会所そのものに燃え移った時、兵士や村人が集まってきてバケツリレーで建物を救おうとした。樽で100杯近くの小麦粉と塩漬けの食物と550ポンドの銃弾が水車用貯水池に投げ込まれた。スパイクで固定された大砲は翌日補修され(壊された砲耳や、ハンマーで打たれた砲口はそのままだった)、銃弾も回収された。

バーレットの家は数週間前は武器庫となっていたが、その時はほとんど何も無かった。家族に伝わる話では、残っているものも畑の畝の間に埋められ、穀物が植えられているかのように見せていた。

オールド・ノース・ブリッジ

オールド・ノース・ブリッジバーレット大佐は村の広場から立ち上る煙を見て、自隊の下には数個中隊しかいないことを確認すると、それまでのプンカタセットヒルの有利な地点から、コンコード川に架かるオールド・ノース・ブリッジから約300ヤード (270 m)のやや低い平たい丘に移動することにした。その土地はバーレットの指揮下にある民兵を率いるジョン・バットリック少佐の所有地だった。しかも集合訓練地でもあった。イギリス軍の2個中隊がその場所を守っていたが、橋に向かって降りて行き丘をバーレット部隊に明け渡した。

民兵の5個中隊とアクトン、コンコード、ベドフォード、およびリンカーンから集まった民兵の5個中隊が丘を占領し、他にも加わって来る者がいて総勢は約500名となり、イギリス軍ローリー大尉の指揮する2個中隊90ないし95名と向き合った。バーレットはマサチューセッツの男達に橋に向かって降りていく公道に2列に長い横隊を作るよう命じ、協議集会を召集した。後にリバティ・ストリートと名付けられた道の向こうにあるノース・ブリッジを臨みながら、バーレットと他の大尉達はこれからの行動について協議した。遅れて到着したアクトンのアイザック・ディビス大尉は「私は行くのを恐れないし、行くのを怖がるような男はいませんよ」と言って町を進んで守ることを宣言した。

この時、一堂はコンコードの町に立ち上る大砲の台車や樽を焼く煙を初めて見つけた。多くの者はイギリス軍が町を焼き払い始めたと思った。バーレットは部隊の者に武装を命じ、敵が撃つまでは発砲するなと言い含めた。続いて部隊に前進を命じた。要所を固めていたイギリス軍の中隊はオールド・ノース・ブリッジを渡って撤退を命じられ、一人の士官が橋板をはがして植民地人の前進を止めようとした。バットリック少佐はイギリス軍に橋の破壊を止めるよう叫び始めた。民兵達は縦隊を作って公道の上のみを前進した。公道の両側は春の雪解け水であふれていた。

この時両軍には音楽も旗も無かった。何年も後に植民地側にいた老人が突然思い出したことは、笛の奏者が、ジャコバイトがハノーヴァー朝ジョージ3世に抵抗するときに使った有名な曲「ザ・ホワイト・コッケード」を演奏したということである。これは作り話の可能性があるが、スコットランドの反乱は30年ほど昔のことだったので、イギリス兵の中には「ザ・ホワイト・コッケード」が何を意味するかを理解できた者もいた。実のところ、当時の宣誓供述書にその日の橋で旗や音楽に言及したものは、両軍とも見あたらない。イギリス軍の側面を守る中隊には旗が無かった。民兵も全く旗を持っていなかった。

民兵の像名目上ここで分隊を指揮していたウォルター・ローリー大尉は、実戦経験が少なくこの時戦術的な誤りを犯した。町中の擲弾兵隊に援軍を要請した結果が何者ももたらさないと分かった時、ローリーが発した命令は橋の後方で川に垂直に戦列を作り「ストリート・ファイアリング」を行う陣形を採らせたことだった。この陣形は町の中の建物の間など狭い通路に対して集中砲火を浴びせるには適しているが、橋の後方の開けた場所には適していなかった。橋を渡って撤退する正規兵が、他の部隊がストリート・ファイアリングの陣形を採っているのを見て混乱が広がることになった。ウィリアム・スーザランド中尉は隊形の後方にあって、戦術の誤りに気付き側面を抑える部隊を出そうとした。しかし、スーザランドはそこにいた兵士とは異なる中隊の者だったので、命令に従ったのは4名のみであった。残りの兵士は上官のローリーの命令に従うために混乱の中でできることを尽くした。

両軍は映画に出てくるような互いに向かい合った形にはならなかった。大文字のTの形に両軍が相対することになり、Tの字の上、水平線が愛国者兵、下の縦の線が橋であり、その先のローリーのイギリス兵ということになった。集団心理というのだろうが、混乱したイギリス兵はストリート・ファイアリングの陣形を作り続け、愛国者民兵は橋に向かって土手道を二列縦隊で進むという形になった。

1発の銃声が発せられた。今回はイギリス軍の列から発せられたことは両軍とも認識できた。ローリーが戦闘後に書いた報告書では、威嚇射撃であり、恐怖に取り付かれ疲れ切っていたイギリス兵が発砲したということである。直後に他にも2人の正規兵が発砲し、続いて1列になっていた部隊の先頭にいた兵士達が攻撃命令が出たものと思ってばらばらと発砲した時ローリーがそれを止めさせた。

橋に向かって前進していた愛国者民兵軍の先頭で、アクトンの民兵、アブナー・ホスマーとアイザック・デイビスが撃たれて即死し、4名が負傷したが、バットリック少佐が叫んだ「撃て!後生だ。仲間よ、撃て!」と叫んだ時に初めて停止した。隊列はコンコード川で遮られほんの50ヤード (45 m)の距離になっていた。民兵の先頭は道で遮られ、戦列を組むことが難しかったが、仲間の頭越し、肩越しにイギリス軍目がけて発砲した。銃弾は弧を描いて飛びイギリス兵の真ん中に跳んでいった。この一斉射撃で橋近くの隊列の先頭にいた8人のイギリス軍士官のうち4人が負傷した。最終的に3人の兵士が戦死し、スーザランド中尉を含む10名が負傷した。

イギリス兵は数的にも負けており、戦術的にも不利な位置にいることをこの時認識した。指揮官が欠け、多数の敵に恐れをなし、このような戦闘を以前に経験したことのないイギリス兵は、心を奪われて負傷者も捨て、町の中心からやってくる擲弾兵中隊の方に逃げ出した。

2009年02月03日

治天の君(ちてんのきみ)

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場[1][2][3]と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場[4]とがある。事実上の国王として君臨した。上皇が治天の君である場合、現役の天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、現役の天皇が治天として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。
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治天という地位は、平安時代後期の院政の開始により登場した。それまでは、藤原北家が摂政・関白(天皇の代行者・補佐者)として政治実権を持つ摂関政治が行われていた。あくまで律令官制の最高位に君臨するのは天皇であり、その天皇を代行・補佐することが、摂関の権力の源泉となっていた。しかし、白河上皇に始まる院政では、上皇が子へ譲位した後も、直接的な父権に基づき政治の実権を握るようになったため、摂関政治はその存立根拠を失った。この変遷は、天皇の母系にあたる摂関家が、天皇の父系にあたる上皇に、権力を奪われたものとみることができる。

平安中期から後期頃から、特定の官職を一つの家系で担うことが貴族社会の中で徐々に一般化しつつあった。官職に就くことは、その官職に付随する収益権を得ることも意味しており、官職に就いた家系の長(家督者)は、収益を一族へ配分する権限・義務を持った。このような社会的な風潮が天皇家へも影響し、天皇家の家督者となった者が、本来の天皇の権限を執行するようになったのだろうと考えられている。

この天皇家の家督者が、実質的な国王であり、治天と呼ばれるようになった。複数の上皇が併存することもあったが、治天となりうるのは1人のみであり、治天の地位を巡って上皇・天皇同士の闘争さえ発生した(保元の乱)。治天が実質的な国王になると、天皇はあたかも東宮(皇太子)のようだ、とも言われた。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。

治天となりうる資格要件は大きく2つある。まず、天皇位を経験していること。次に、現天皇の直系尊属であること。この結果、治天になれなければ、自らの子孫へ皇位継承できないことを意味しており、治天の座を獲得することは死活問題であった。

平安後期
1086年(応徳3年)に白河天皇が実子の堀河天皇へ譲位し、院政を開始した時が、治天の成立だと考えられている。堀河は皇位にありながら、政治の実務は白河が行っていた。堀河が没してその子鳥羽天皇が即位しても白河が政務を担った。白河が没すると、崇徳天皇に譲位し既に上皇となっていた鳥羽が治天となり、院政を開始した。白河も鳥羽も積極的な政策展開を行い、専制的な院政の典型とも、院政の最盛期とも評されている。

1156年(保元元年)、鳥羽が没すると、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟が治天の座を巡って争い、後白河が勝利した(保元の乱)。後白河は2年後の1158年に退位すると院政を開始し、途中、平清盛による院政停止や高倉院政などがあったものの、1192年(建久3年)に没するまで治天の地位にあった。

さて、白河院政の後期以降、院への荘園寄進が非常に集中するようになり、天皇家は莫大な経済基盤を得ることとなった。これらの荘園はいくつかのグループに分けられ、別々に相続されていった。例としては、鳥羽が娘の八条院に相続した荘園群である八条院領、後白河が長講堂という寺院に寄進した長講堂領などがある。治天は天皇家の家督者として、これらの厖大な荘園群を総括する権限を有していた。

鎌倉期
後白河の次に治天となったのは、その孫の後鳥羽天皇だった。1180年代の治承・寿永の乱の結果、東国に鎌倉幕府が成立し、独自の支配権を獲得していたが、治天として専制を指向する後鳥羽には、幕府の存在が我慢ならないものだった。1221年(承久3年)、まだ誕生して間もなく、源実朝暗殺により将軍不在となった幕府の体制を不安定と見た後鳥羽は、幕府の武力排除を試みたが、幕府軍に敗北してしまった(承久の乱)。これにより、後鳥羽及びその直系の上皇・天皇は追放され、後堀河天皇が即位した。後堀河の父守貞親王が天皇家の家督者として、治天に就任することとなったが、守貞親王は天皇位に就いたことがなく、治天の資格要件を欠いていた。しかし、緊急事態であることが考慮され、特別に治天となり、後高倉院(天皇の例に倣い没後に院号を贈られた)として院政を布いた。これは、既に治天の存在が不可欠になっていたことを表している。

承久の乱以降、治天がそれ以前と同等の権力を有することはなく、重要事項は幕府と協議した上で決定することが常態化した。13世紀中期には、次代の治天の座を巡って後深草天皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)が対立したが、治天である後嵯峨上皇は亀山系による皇位継承を遺言して没し、後深草系はこれに反発して幕府に力添えを頼んだ。最終的には幕府が仲介に入って双方が交互に治天の地位に就く両統迭立が行われるようになった。本来なら治天が次代の治天を指名するべきところ、その指名を幕府に委ねたという事実は、治天の権威が低下しただけでなく、治天の権限の一部を幕府が代行していたことも意味している。

1318年(文保2年)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、上記の状況を大きく変革した。まず、父であり治天でもある後宇多上皇の院政を停止し自ら政務に当たる親政を始め、また、2度にわたって倒幕を企てたが、いずれも天皇位への権力集中(権力の一元化)を指向したものだと見られている。

室町期
1333年(元弘3年)に始まる後醍醐の建武の新政は数年で失敗に至り、当時最大の実力者だった足利尊氏が幕府政権を樹立することとなった。その際、尊氏は、持明院統の光厳上皇を治天とし、その弟の光明天皇を即位させ、自らは征夷大将軍に就任する。後醍醐は治天の地位を否定したけれども、社会はそれを必要としていたことを表している。後に美濃守護土岐頼遠が光厳上皇に矢を射掛ける事件を起こした際に、尊氏から事件の処理を任された弟の足利直義は幕府内外から起こる頼遠助命の声を無視してその斬首を強行した。直義は光厳上皇の治天としての権威のみが、室町幕府の政治的な正統性を保障していることを理解していたのである。

1352年(正平7年/観応3年)、北朝・幕府と対立していた南朝は、観応の擾乱に乗じ、北朝側の治天・天皇・皇太子を拉致することに成功した。建前であっても、政治決定には治天の裁可を必要としていたため、幕府及び北朝側の公家は北朝の再開に取り組むこととなった。治天・天皇・皇太子の奪還は困難と見られたため、出家していた弥仁親王(光厳の子)を後光厳天皇とし、京都に残る天皇家の中で最高位者だった広義門院(西園寺寧子、後伏見の女御・光厳の生母)を治天とすることで対応した。女性で、しかも天皇家の出自でない者が治天となるのは前代未聞の事態だったが、これにより北朝は存続することができた。どのような形であれ、治天という存在が政治上、必要不可欠だったのである。

最後の治天と呼べるのは、後光厳の子の後円融上皇である。後円融は1393年(明徳4年)に没した。その後、院政を行った上皇はいるが、天皇家の家督者としての実権を有していたとは言えず、治天と呼ぶにはふさわしくないと考えられている。例えば、後円融の子後小松天皇は、1392年(元中9年/明徳3年)に南北朝合一を実現して後醍醐以来の唯一の天皇となり、皇子称光天皇に譲位して院政を行い、1428年(正長元年)に称光が没して皇統が絶えると、伏見宮家から後花園天皇を立てて院政を続けた。これらは、南北朝合一の約束であった両統迭立を死文化し、持明院統による皇位継承を既成事実化するための将軍足利義満の意向であった。なお、後円融の死後、足利義満が事実上の治天となっており、子の義嗣を天皇位に就けようと画策していたとする説もある。また、義満死後に生じた後花園天皇の擁立は、後小松上皇による治天としての行為であるとも考えられる。

歴代の治天
治 天 親 政 院 政 皇 位
白河院 1086 −1129年 堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇
鳥羽院 1129 −1156年 崇徳天皇、近衞天皇、後白河天皇
後白河院 1156 −1158年 1158 −1192年[要出典] 二条天皇[要出典]、六条天皇[要出典]、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇
後鳥羽院 1192 −1198年 1198 −1221年 土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇
後高倉院 1221 −1223年 後堀河天皇
後堀河院 1223 −1232年 1232 −1234年 四条天皇
四条天皇[要出典] 1234 −1242年
後嵯峨院 1242 −1246年 1246 −1272年 後深草天皇、亀山天皇
亀山院 1272 −1274年 1274 −1287年 後宇多天皇
後深草院 1287 −1301年 伏見天皇、後伏見天皇
亀山院 1301 −1305年 後二条天皇
後宇多院 1305 −1308年 後二条天皇
伏見院 1308 −1317年 花園天皇
後伏見院 1317 −1318年 花園天皇
後宇多院 1318 −1324年 後醍醐天皇
後醍醐天皇 1324 −1331年
後伏見院 1331 −1333年 光厳天皇
後醍醐天皇[要出典] 1333 −1336年
光厳院 1336 −1352年[要出典] 光明天皇、崇光天皇
広義門院 1352 −1357年 後光厳天皇
後光厳院 1357 −1371年 1371 −1374年 後円融天皇
後円融院 1374 −1382年 1382 −1393年 後小松天皇
鹿苑院 1393 −1408年 後小松天皇
後小松院 1408 −1412年 1412 −1433年 称光天皇、後花園天皇

2009年01月20日

茶事の主催者(主人、亭主)

茶室(ちゃしつ)は、茶事の主催者(主人、亭主)が客を招き、茶を出してもてなすために造られる施設である。日本庭園の中に造り、露地を設けるのが一般的であったが、近年ではホテルや公会堂、商業ビルの一角などに造られることもある。また茶道部があるために、キャンパス内の片隅に茶室を構えている大学も多い。

茶道の稽古をしたり、茶を楽しむために炉が切ってある和室(畳のある部屋)も一般に茶室と呼ばれるが、本項では主に四畳半以下の草庵風茶室について述べる。

草庵風茶室は、田舎屋風の素朴な材料(丸太、竹、土壁など)を使って造られた。縁側からの採光を土壁でさえぎり、そこに必要に応じて「窓(下地窓、連子窓、突き上げ窓など)」をあけることにより光による自在な演出が可能となった。一間を基本としていた床の間も部屋の広狭、構成に応じて四尺、五尺とバリエーションを増し、そのデザインも、「室床」「洞床」「壁床」「踏み込み床」など、多様な展開を見せる。室内には中柱を立て亭主座と客座の結界とした。こうして狭い空間の中に客と亭主が相対する、濃密な空間が生まれた。

足利義政が東山に建てた(慈照寺)東求堂には四畳半の部屋があり、茶室の元祖と言われることがある。また、村田珠光が市中の草庵として四畳半の茶室を造った。

茶室を独自の様式として完成させたのが千利休である。利休は侘び茶の精神を突き詰め、それまでは名物を一つも持たぬ侘び茶人の間でしか行われなかった二畳、三畳の小間を採り入れ、にじり口をあけた二畳の茶室を造った。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

茶室待庵(国宝)は千利休の作とも言われるが、侘び茶の境地をよく示している。
にじり口は、千利休が河内枚方の淀川河畔で漁夫が船小屋に入る様子を見てヒントを得た、とされる。しかし、にじり口の原型とみられる入り口は、武野紹鴎の時代の古図にも見られ、また商家の大戸に明けられた潜りなど同類の試みは多種見られることから、利休の発明とは言えない。
利休は一方で、秀吉の依頼で黄金の茶室を造っている。これは解体して持ち運びできるように造られていた。黄金の茶室は秀吉の俗悪趣味として批判されることが多いが、草庵の法に従って三畳の小間であり、それなり洗練されたものも持っている。黄金の茶室も利休の茶の一面を示しているという見方もある。

古田織部、小堀遠州らも茶室を造っている。茶室は小さな空間であるが、様々なパターンがあり、多様な展開を見せている。利休の孫宗旦は究極の侘びを追求して、利休が試みてすぐ廃した一畳台目という極小の茶室を生み出した。これに対して、古田織部、小堀遠州、織田有楽斎、金森宗和ら大名茶人は、武家の格式を持つ書院風茶室や小間と言えど三畳前後のゆとりのある茶室を生み出した。千家歴代もそれぞれに新たな茶室を好んでいるが、その試みは必ずしも宗旦が目指した侘びに徹したものとはなっていない。

茶室は小規模でもあり、解体して他の場所で再建することも比較的容易である。現に如庵(国宝)は、京都の建仁寺から東京の三井家、大磯の三井家別荘、犬山の名鉄有楽苑、と度々移築されている。また「写し」と称して、名席と評される茶室を模して建てられることもしばしばある。

仮に茶室が単独でポツンと建てられていたら殺風景なものである。茶室に至るまでの空間の演出が大切である。

客がいきなり茶室に通されることはなく、まず寄り付きや座敷などへ案内される。庭へ出て小さな門をくぐる。茶室までの通り道は、飛び石を配した露地となっていて亭主の心遣いにより打ち水が打たれている。途中の待合に腰掛があり、ここでしばらく待つ。迎えでた亭主の合図に従い客は茶室へと向かう。茶室の前につくばいがあり、ここで手水を使う。茶室には、にじり口という小さな入口から、頭をかがめて体を入れる。にじり口に入ってまず目に入るのが床の間である。墨蹟窓からの光に照らされた床には、四季に合わせた掛け軸、花があしらわれている。通常床前が上座であり正客席となる。夏には風炉が置かれ、冬には炉が切られ、そこが亭主の座る手前座である。手前のための明り取りとして風炉先には下地窓が開けられている。客が着座すると亭主が勝手口から出てきて挨拶をし茶事が始まる。天井は低く、窓からの光も必要最小限に絞られて、主客ともに茶事に集中する。懐石を戴いた後一旦露地に退出するが、また茶室に戻り、まず濃茶を一同回し飲み、ついで薄茶を味わった後、客はこの一期一会の場から静かに退出する。

にじり口には頭を下げなければ入れないので、貴人を迎える場合のため、にじり口とは別に貴人口(立ったまま入れる普通の障子戸)を設けることも多い。給仕のために勝手口とは別に給仕口をもうける事もある。